インフォメーション 〜time now〜

 帰国して約一ヶ月になります。安堵感と喧騒の中に舞い戻った落胆が入交り、少し妙な感覚に陥っています。でも、やっぱり日本は安心・便利で清潔な国だと思います。歌手の西城秀樹さんがお亡くなりになったのが、とてもショックです。私が、生まれて初めて高校生の姉に連れていってもらったのが、西城さんのコンサートだったからです。カッコ良かったし、アイドルだけど歌唱力も凄かったです。西城さんに限らず、長年ご活躍された芸能人の方々が、お亡くなりになるのも淋しいですね。

 超高齢化に突入した我が国の認知症高齢者数は、2015年時点で500万人を超え、2025年には700万人に達すると見込まれています。最近、認知症患者ご本人から「徘徊(はいかい)」という言葉を使わないで欲しいと声が上がり、自治体などが動き始めました。厚労省も、新たな文書や行政説明などでは「徘徊」を使わないようにしているとコメントしています。当会では、当面「徘徊」を「追尋」と表させて頂くようにします。患者さん本人の主張や認知症の各団体の理想は理解できます。言葉の定義や呼称の問題ではなく、人権を含む社会の問題を指摘されているのだと思います。しかし、家庭で認知症の方を介護するのと施設に入院又は入所されている場合、明らかな違いがあると思います。お考えになってみて下さい。必要以上の制止や監視は家族がしても施設がするのも罪ですが、究極的には、安全と尊厳(自由)どちらを選択するかになると思います。仮に、自由を選択した場合に事件や事故に遭遇した際の責任は問われないか? 列車事故や交通事故に遭った場合にも、その家族や施設に賠償請求はされないか? 多分、これが家族の看ているケースなら、多少なりとも社会(世論)に同情もされます。しかし、施設に入院又は入所されている方だったとするなら、その施設は社会から監視体制を始め、ありとあらゆる事まで非難されるでしょう。更に、刑罰や行政処分も科されるケースも出ます。「ご家族とご本人様のご希望(意思)を優先したので、施設側はどうする事も出来ませんでした」と言えば無罪放免にしてくれるとは思えません。一旦、何かが起きると一転してしまう価値観や正義、矛盾の多い社会です。こうなると、自己決定するならば、「責任回避」をせずに本人や家族が責任をとるという気概と覚悟を持たなければ社会は変われないし変わりません。権利を主張するなら、責任も取りましょうと言う事です。そこが、尊厳(自由)の論議のスタート地点だとも思います。すると、社会が動き始め変わっていくのだと思います。無関係な人間にとっては、事件や事故に巻き込まれるのは迷惑ですからね。少し熱くなりましたが、認知症を患った父の介護を家族で3年余りした経験と医療・介護に従事する経験を持ち合わせる私だからこそ言えます。この活動が、言葉の定義や呼称の問題に留まらず、認知症患者さんやその家族、関係する施設や社会の救いになる活動に繋がればいいと思っています。

 言葉の問題で思い出したのですが、障害者の方が「障害を個性と言われてしまうと、施しようがないように感じる」と言うような事をあるTV番組でお話しされていました。私は、「確かにそうだな」と思いました。差し障りのない言葉だけれども、当事者には受け入れ難い言葉なのだと気付かされたので、それ以来使わなくなりました。そういえば、障害の「害」もそうです。やはり、主張により「がい」や「碍」が広く使われています。これら全てを含み、主張のコアや日々の生活が、社会に包摂される日本になるといいですね。

 その実現のためにも、一貫して言えるのは、精神的・社会的・経済的自立(律)と責任や努力が、どんな立場にあったとしても大前提になるという事です。

 最後に、「タイムナウ、楽しみにしています」「勉強になります」などのお声を頂き、恐縮すると同時にとても嬉しく、それがパワーになり、私を奮起させてくれています(^_-)-☆



平成30年5月タイムナウ 岩根

Keyword:自立(律)